By Ewan Munro – Russell Square station, CC 表示-継承 2.0, Link
Rsussel Square Underground Station (Finding Sherlock’s London P37)
訪問日:2006年11月4日
さて、先日紹介したロンドンガイドブック「Finding Sherlock`s London」ですが、これから同書で紹介されているホームズゆかりの地について、地下鉄駅毎に紹介していきたいと思います。
Finding Sherlock’s Londonに記載されている場所をその記述を紹介するとともに、手元にある延原謙訳の新潮文庫シャーロック・ホームズ全集から、当該の地名の登場する記載を紹介していきたいと思います。
記念すべき第一回目は、私の下宿先の近くでもあるRussel Squareから始めたいと思います。
Great Ormond (ORME) Street
まずしょっぱなは、「赤い輪」事件に登場するグレート・オーム(Great Orme)ストリート。
グレート・オーム街という通りは存在しません。大英博物館の東北というヒントと通りの名前の類似性からこのGreat Ormond Streetがその舞台だと思われます。
Russel Squareの東にありますが、一度New Oxford Stに出てから二つめの道を北上するか、Russel Square駅前を東に行って曲がるかしないといけないので、探すのが手間かもしれません。
Finding Sherlock’s Londonではこのように書かれています。
In the Red Circle, the Warres lived on Great Orme Street. Mrs. Warren consulted Holmes about her lodger, who was really Emilia Lucca, although no one knew it at the time.
延原謙さん訳の「赤い輪」での登場シーンです。
十二時半に、私たちはワレン夫人の家の玄関に立っていた。大英博物館の東北がわにあたるグレート・オーム街という狭い通りで、黄いろいレンガづくりのひょろ高い建物だった。
「赤い輪」という事件は、引きこもってしまった奇妙な下宿人についてワレン夫人がホームズに依頼したことをきっかけに、イタリアとアメリカで数々の犯罪を起こした赤い輪団と呼ばれる組織のゴルジアーノと元団員のジェンナロの話につながっていくというお話しです。
この事件の依頼を持ち込んだワレン夫人が下宿屋を営んでいるのがグレート・オーム街というところになります。
ここがグレートオーモンド通りです。
通りの様子はこのような感じ。
どこがワレン夫人の下宿だったのでしょうか。
場所を特定するにあたって重要なのがハウ街です。
ワレン夫人の家は、
街角にちかく建っているので、いくらかましな家のならぶハウ街が見わたされた。
と書かれています。
また、ワレン夫人の下宿人にロウソクで信号を送っていたのが近くの建物からでハウ街にありました。
信号が出される建物について新聞広告を通じて次のように下宿人に伝えられました。
『白き石の飾りある赤レンガの高き家。三階の左から二つ目の窓。日没後—G』
ホームズはにっとして、その中の一軒、棟わりの住室になっているいやでも眼につくやつを指さした。
「わかるだろうワトスン君? 『白き石の飾りある赤レンガの高き家』だぜ。これが信号所なんだ。
そして実際の信号のやりとりのシーンでもハウ街という名前が出てきます。
光はぱっと消えてしまって、窓がまっ暗になったのである。その高い建物は多くの窓が明るく輝くなかに、四階だけが黒い帯でもしめたように、まっ暗である。信号は終りになってとつぜん中断された。どうしたのだろう?
ハウ街を急いで歩きながら、私はいま出てきた建物を振りかえってみた。最上階の窓に、ぼんやりと人の頭が見える。女だ。息もつめるばかりに緊張して、中断された信号の再開されるのを待って、夜空を凝視しているのだ。
上記の記載からグレート・オーム街のワレン夫人の家は、ハウ街との街角近くに建っていて、ハウ街にある建物からの光の信号が見えるということが分かります。グレート・オーモンド街とつながった通りがハウ街ということになります。
しかし、この肝心のハウ街が地図上では見当たりません。
シャーロッキアン、コリン・プレスティージュ氏による推理
こうしたヒントを元に、ワレン夫人の下宿の場所について、確認できた限り二人のシャーロッキアンが場所を推測しています。
その一人はColin Prestigeさんという方で、ロンドン・シャーロック・ホームズ協会の機関誌である「Sherlock Holmes Journal Vol 17 No 4」(1986年夏号)のJack-Knifeというコーナーで書いています。
彼によれば、ハウ街は、グレート・オーモンド通りに南側から交わっているオード・ホール通りのこととしています。
従って、このグレート・オーモンド通りとオード・ホール通りの交差する地点の近くがワレン夫人の家としています。
結論として、彼はグレートオーモンド通りの21、23,25,27のいずれかだろうとしています。これらの建物が4階(イギリスは1階をグランドフロアと呼ぶので、日本では5階にあたります)あり、3つの窓が1〜3階にあり最上階には二つの窓があるためとのこと。
そのうちの23番地には「Sun Tavern」という宿屋があったので、朝日や夕日が赤い輪に見える、太陽→黄色い顔=「黄いろいレンガづくり」という連想が働くので、ここを選択したいとも書いています。
こちらがGoogleストリートビューで見た、現在の23番近くの通りの様子となります。
この説の弱いところですが、まず、現在は5階建てではなく4階建て(グランドフロアを除く日本式の数え方だと)が並んでいるということ。これらの建物が建て替えられているということなのかもしれませんが、正典の描写とは違っています。
もう一つ弱いのは、これらの窓が北向きになっていて、オード・ホール通り側の建物を見渡せないと言うことです。この窓から見ていたとすると、グレート・オーモンド通りの反対側の家と通信していたことになってしまいます。裏窓という可能性はありますが、ワトソン博士がハウ街(オード・ホール街)から窓を見ていたとのことですのであてはまりません。
デヴィッド・ハマー氏による推理
もう一人、ワレン夫人の家の位置を推理したのがホームズの地理学の本を何冊も出しているDavid L. Hammerさん。その著書、「For the Sake of the Game」という本で語られています。
ハマーさんもハウ街はオード・ホール通りとしています。(私の持っている版ではOrd Hill StreetとなっていますがOrd Hallの誤植だと思います。)
このオード・ホール通りの建物が見えるということは、グレート・オーモンド通りの北側のどこかにワレン夫人の家があるはずですが、現在ではグレート・オーモンドストリート病院の一部となっています。ハマーさんは、かつてワレン夫人がいた家は、病院が拡張されたときに建て替えられてしまったと述べています。
一方、ハウ街=オード・ホール通りの東側には正典の記載にあるビルがあるとしています。
現在の様子はこちらとなります。
残念ながら、現在の建物は正典で言われている4階建て(日本で言う5階建て)ではなく、もっと低い建物ばかりになっています。
プレスティージュさんの説も、ハマーさんの説も、現在の建物が正典の記述と違っているため検証が難しくなっています。当時の建物に関する記録などを参照できればさらに検証できるのですが、日本では困難そうですね。
階数については分からないのですが、当時の地図上の建物の形などについてはこちらのサイトで調べることができました。
ハマーさんの言うとおり、当時は今回検証した場所付近のグレート・オーモンド通りの北側は、まだ病院の建物ができておらず違う建物が建っていたようです。
今回候補となった建物も微妙に形が似ていますが、まったく同じでもないようです。
ということで、お二人の推理の検証についてもとりあえずはここまで、ということになります。
3階と4階の謎
一つ、疑問に思っていたのですが、合図を送る側が建物の何階にいたのか、新聞では3階(「白き石の飾りある赤レンガの高き家。三階の左から二つ目の窓。」)から送るとされているのに、ワトソン博士の記載では4階となっているのです。(「四階だけが黒い帯でもしめたように、まっ暗である。信号は終りになってとつぜん中断された。」)
3階から信号を送る予定が、なんらかの都合によって4階になってしまったのでしょうか。
新聞広告を出したのがイタリア人のジェンナロで、書いているのがイギリス人のワトソンなので、イタリアとイギリスとで数え方が違う?とも思ったのですが、イタリアでも1階は地上階、その上から1階がはじまるのでイギリス方式と同じです。
ワトソンが3階と書いて、ジェンナロが4階と書いていれば、アメリカに長かったジェンナロがアメリカ方式で数えた、という事も成り立ちますが、実際は逆になっているので成り立ちません。
かなり悩んだのですが、英語の原典をあたってみて分かりました。原著では、両方ともThird FloorとかThird Landingとなっていたのです。単に延原さんの訳が新聞広告はそのまま3階と訳して、後段のホームズとワトソンが見ていた、そして踏み込んだ階を4階と訳していただけでした。
親切に実際の階だけ日本の階にあわせて訳したと言うことなのかもしれません。
ちくま文庫のホームズ全集で「赤い輪」を確認したところ、すべて4階で統一されていました。(Third Landingは3つめの踊り場とされていました)
私の持っている延原訳の版が古いのかもしれませんので、もう改訂されているかもしれません。
Russel Square
次は「踊る人形」事件に登場するラッセルスクエアです。
踊る人形は、文字通り人形が踊っているような落書きが実は暗号だったという話で、最終的には殺人事件に発展します。
そんな「踊る人形」で主要人物となるヒルトン・キュビット氏が妻・エルシーと出会ったのがラッセルスクエアでした。
Finding Sherlock’s Londonではこのように書かれています。
When he came up to London for the Jubilee, Hilton Cubitt stayed in a boardinghouse in Russel Square. There he met the American, Elsie Parker. After their marriage, Else started receiving The Dancing Men message.
延原謙さんの翻訳です。
「昨年の五十年祭には私もロンドンへ出てきましてね、教区牧師のパーカーさんのいた関係で、ラッセル・スクェアの下宿屋に滞在しました。同じ宿にパトリックさんというアメリカの若い婦人がいました――エルシー・パトリックという婦人です。」
ラッセルスクエアは私がロンドン留学中に下宿しているところから目と鼻の先です。ドアを出て左を見るとすぐそこがラッセルスクエアという感じ。
公園内の様子です。
Russel Squareの周りで宿というと現在では、東側と北側の通り沿いにホテルがあります。南側の私の住んでいるBedford Placeにも宿が多いのですが、住所としてはRussel Squareではないので、除外してよいかと思います。
二つのジュビリー
五十年祭(Jubilee)というのは、ヴィクトリア女王の即位記念式で1887年に開催されました。これはゴールデンジュビリーという五十年祭なのですが、実はその10年後にも60周年を祝ったダイヤモンドジュビリーもありました。従って、「ジュビリーが昨年あった」というだけでは、事件発生が88年なのか、98年なのか分かりません。
延原さんは五十年祭と訳していますが、多くのホームズの年代学研究者(事件の発生順などを研究する人々)は六十年祭の翌年1899年に事件が発生したと考えているようです。(88年としている研究者=Donald A. Yatesもいます。”On the Dating of the Dancing Men” , The Baker Street Journal Vol 42, No 4, Dec 1992)
キュビット氏が泊まった宿は?
さて、地理学的な面からは、ヒルトン・キュビット氏がどこに泊まったのかが気になります。
「ベデカーのロンドン案内」という1900年のロンドンの案内書があります。手元にあるのは復刻版ですが、当時のロンドンの様子を知るのに便利です。夏目漱石も倫敦滞在中は活用していたようです。
このガイドには主要なホテルも書いてあるので、調べてみたところラッセルスクエア周辺でも一つ紹介されていました。
それがHotel Russell。
By Diliff – Own work, CC BY 3.0, Link
現在も「The Principal London」として営業が続いています。
キュビット氏はかなりお金持ちだと思いますので、ラッセルスクエア周辺ということであればここが一番立派そう(近くにImperial Hotelというのもあったようですがオープンしたのは事件後、Hotel Russelも1897年建設なの60年祭にぎりぎりできていたかです)で、泊まっていても良さそうなのですが、彼曰く、下宿宿=Boading Houseに泊まったそうなので、もっと質素なところだったのかもしれません。
当時の地図を見ても、上記の二つのホテル以外に、ホテルと書かれている場所はありませんでした。下宿だとするとひっそりと営業していたのかもしれません。スクエアの北部の並びのどこかか、あるいはラッセルスクエアが住所ではなくエリアだとするとBedford StreetやMontague Streetまで可能性は広がるかもしれません。
Tomo’s Comment Follow @tommasteroflife
二カ所ともに正確な場所の特定までいたりませんでしたが、どこら辺の可能性が高そうなのかにせまることはできたと思います。
延原謙さんの訳についても、「赤い輪」は一貫性のない訳がありましたし、「踊る人形」は五十年祭ではなく六十年祭と訳すべきかもしれない可能性もあることが分かりました。やはり原典に当たることが大切です。
建物の歴史や過去の用途についてさらに調べられるとさらに考察が深まると思われます。イギリスは記録社会でなんでも記録にしているところがあるので、いずれインターネットでも調べられるときが来ると思いますので、いずれさらに踏み込んだ調査をしてみたいと思います。
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Russel Square、なかなか通りも公園もいいところですね。
うらやましいです。
ホームズゆかりの地、たくさんありそうですね。あの有名なパブもそのうち紹介されるでしょうか?
まきさん、コメントありがとうございます。
ラッセルスクエアは中に喫茶店などもあり、小さいながら落ち着いていいところです。勝手に私の庭に指定しています。
あのパブもこの前、写真だけ撮ってきましたが、今度はなかで食事をしてレポートしたいと思っています。
まぁ、懐かしい。。。大学を抜け出しては、昼休みに大英博物館をウロウロ。
Russel Sq.は通り道でした。
Russel Sq.のあたりって、ホテルとB&Bしかないと思ってたのですが、一般民家(フラット?)も、結構、あるのですか?
もしかして、ディロンズ(書店)の何階かに住んでるとか、、、って、誰だっけ?オーソン・ウェルズでしたっけ?
こんにちは。この辺は確かにB&Bが多いのですが、IOEなんかは寮を持ってるみたいです。私は、残念ながらディロンズではなく、学校の紹介で、とあるB&Bのスタッフ用の部屋を借りています。
RT @tommasteroflife: 大昔の記事に大幅に内容を追加してみました。【ホームズゆかりの地】「ラッセル・スクエア(Russel Square)」ワレン夫人の下宿とキュビット氏が泊まった宿は? https://t.co/yE145RiWN2