岩田剛典、ディーン・フジオカ (C) フジテレビ
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シャーロック劇場版、もうご覧になられましたでしょうか。
私も試写会で見ていたのですが、再度劇場で鑑賞してきました。
2回目を見て、よりストーリーの細部まで把握できましたし、全体を貫いていたテーマや、各登場人物の抱えている事情や感情もより理解できたように思います。きっと何度見ても新たな発見がありそう。
西谷監督がインタビューで「初めて映画から観る人のためにも、連ドラの世界観に頼りすぎてはいけない」と語っているとおり、映画版作成に当たってはいったんTVシリーズは忘れることにしたそうですので、ドラマとは完全な地続きではないという前提はありました。
これは必ずしも悪いことではなく、ドラマ版を見ていない人でも楽しめるようにということと、テレビと映画との違い、獅子雄と若宮バディの成長など、さまざまな要素からの判断だと思います。
とはいえ、テレビドラマのファンが楽しめないわけではなく、当時を彷彿とさせるエピソード(コーヒーこぼしとか😀)もありますしよく見ると小物などでもテレビドラマとのつながりが見えたりもします。(獅子雄と若宮の部屋が冒頭と最後にでてきてドラマの部屋より小さな部屋になっていて引っ越したようですが、よく見るとバイオリンケースやサンドバッグ、SHJWの探偵社のチラシなどがありました。)
つまり、映画で初めて見る人も楽しめますが、ドラマを見ているともっと楽しめる。
そして、これは原案となったシャーロック・ホームズや、特に本作が題材にしたオリジナルの「バスカヴィル家の犬」についても同じだと思います。
読んだことがなくても楽しめるけど、読んでいるとより楽しめる、はず。
ということで、見る前に、あるいは二回目以降見るときに知っておくと楽しめるオリジナル「バスカヴィル家の犬」と本作との関係性について、解説してみたいと思います。
以下、原作の「バスカヴィル家の犬」及び劇場版双方ともにネタバレが含まれますので、特にまだ映画を見ていない方で、予備知識を全く持たずに初回を見たいという方は鑑賞後に読んでいただければと思います。
(以下ネタバレありとなりますのでご注意ください)
時系列
劇場版はいったんドラマ版を離れて作成したとのことですが、その一つの表れが時系列にあるかもしれません。
ドラマの特別編の最後の場面、獅子雄が復活したのは失踪の3年後とされていて2022年12月のはずですが、映画版は2022年1月の出来事になっていて、つじつまが合っていません。
このロジックをどう説明するかは、シャーロッキアン的には楽しいチャレンジではあります。(が、制作側はあまり考えないようにしよう、ということだったようです。)
それはさておき、原作の「バスカヴィル家の犬」が発表されたときの状況とも類似していると言えなくもありません。ホームズがライヘンバッハの滝で宿敵モリアーティとともに滝壺に落ちて死んでしまったとされていた「最後の事件」が発表されたのが1893年で、ホームズの復活が描かれた「空き家の冒険」の発表が1903年。
この間である1901年に発表されたのが「バスカヴィル家の犬」でした。この時点ではホームズが死んでいる(とされていた)のにどうしてホームズの新しい話が発表できたのか不思議に思うかもしれませんが、「バスカヴィル家の犬」事件が起こったのが「最後の事件」よりも前のことだったということになっているのですね。つまり過去の回想として書かれているのです。
この劇場版シャーロックは、すでに特別編で獅子雄が復活することをみんなは知ってはいるのですが、その時期2022年12月よりも前に公開されている、ということで、原作の状況と似ていると言えるのではないでしょうか。
登場人物
蓮壁家の面々
これは映画化が決まったときにも考察したのですが、原作に登場する人々になぞらえた人物が多々登場しています。
まず、バスカヴィル家の人々でいうと、冒頭で亡くなるチャールズは千鶴男があてはまります。その遺産を相続するヘンリーは千里。このあたりまではいいのですが、蓮壁家にはさらに依羅と紅がいます。この二人は、原作ではバスカヴィル家の人々ではなく、依羅は執事のバリモアの妻イライザ、紅はステープルトンの妹ベリルにあてはまります。紅とベリルは「ベ」しか合っていませんが、紅のバイト先での名前がベリルなので、やはりベリルにあたることが分かります。
しかし、この二人がまったく原作の役割と違うかというと、実は原作の人間関係が色濃く反映されていると思いました。
まず依羅ですが、映画では千鶴男の妻なのですが、原作の設定に倣うのであれば蓮壁家の執事の馬場の妻であるべきです。しかし映画での馬場杜夫と依羅の関係を見ていると、重大な秘密を共有するという非常に強い関係性を持っていますので、原作の夫婦関係と比べても遜色はないものだと納得しました。原作でも、脱獄囚セルデンを巡って、二人は雇用主であるヘンリー・バスカヴィルに対して秘密を隠していたことにも通じます。
紅は、ステープルトンの妹のベリルに当たるのですが、このベリル、原作ではステープルトンの妹として紹介されていたのですが、実はステープルトンの妻であることを隠されていたことが判明します。本来の関係性が偽られていたというところに、本作での紅の立場(千里の実の妹ではない)が重なります。
そして、原作で登場するもう一人のバスカヴィル家の人物が、黒犬伝説の元となった暴君ヒューゴー・バスカヴィル。このヒューゴーの血を色濃く受け継いだのが、原作の真犯人であるステープルトン(彼もバスカヴィル家の一員)でした。
原作でこの関係性に気がついたのはシャーロック・ホームズでした。
ヒューゴーの肖像画を見たホームズは言います。
「この絵をみて何か思いあたらないかい?」
私は羽根飾りのついた大きな帽子や、美しくうずまいて肩にたれた巻き毛、白レースのカラー、そのカラーの上に見える厳格な顔などを注意ぶかく見あげた。そこには残忍なところはなく、端然とし、りんとして厳格そうで、うすい唇をきゅっとむすび、眼つきには狭量な冷たさがあるだけだった。
「誰か君の知っている人に似たところはないかい?」
「あごのあたりはヘンリー卿に似ているね」
「それもそうだ。ではちょっと待ちたまえ」と彼は椅子の上にあがって、ろうそくを左の手に持ちかえ、右の手をまげて大きな帽子と長くたれた巻き毛とをかくしてみせた。
「おお、なるほど!」私はびっくりした。
カンヴァスの上に浮かびあがったのは、ステープルトンの顔ではないか!
ホームズは肖像画の眼つきを見て、ヒューゴーとステープルトンの関係を見抜いたわけです。
これは、紅が自分の娘だと思うきっかけが眼だったという冨楽朗子のエピソードとも重なります。
そして、紅の役どころですが、ベリルでもあるのですが、遺産相続のためにバスカヴィル家の人々を殺害するステープルトンでもあるということがこちらのエピソードとの関連でも明らかになっていると思いました。
ステープルトンであるべき捨井と紅の役割が逆転しているのですが、原作で脅迫状(警告書)を作ったベリルと映画で警告書をつくっていた捨井との逆転関係とも整合しています。
さらに紅の役どころは、原作と照らしてもかなり重層的です。ベリルであり、ステープルトンであり、そして伝説の魔犬の役割もありました。(これは犬の形の痣があることや、伝説の黒犬の呪いの体現者でもあることからも明示的に言われていました。)バスカヴィル家を呪う魔犬と蓮壁家の血を絶やそうとする紅=黒犬伝説の体現者、といえるのではないでしょうか。
原作では、ステープルトンは底なし沼にはまって沈んでしまったことが示唆されています。映画でも、紅の最後は土砂崩れに巻き込まれたであろうことが示唆されて終わりますが、地下に埋もれてしまうという点では同様だと思いました。
そして、本来のステープルトンである捨井が紅と運命をともにすることになりました。獅子雄達とともに逃げ延びるチャンスもあったのに土砂崩れに巻き込まれてしまったのは、紅との役割の交換はあったものの、最後は原作のステープルトンと同じように土に埋まるということ、真犯人としてのステープルトンである紅と表向きのステープルトンである捨井が運命をともにするということで、一体となって終わったと言うことかもしれません。
映画の最後のシーンについては、賛否両論の感想を見かけました。もちろん、捨井の役どころや伏線との関係もありますが、シャーロッキアンとしては原作にも沿った納得感のある物でした。
冨楽夫妻
映画では、冨楽雷太と朗子という夫妻が、物語のキーを握る人物として登場します。
原作では、フランクランドという人物が登場し、その娘としてローラも登場しています。
原作は父娘、映画は夫婦ということで、若干の関係性の違いがあります。
ローラはステープルトンが既婚であると言うことを知らなかったことから、「そこでステープルトンは独身をよそおって、ローラを完全に手にいれてしまった。ローラが現在の良人とうまく離婚ができたら、あらためて結婚しようといううまい話をにおわせたんだね。」といった関係になってしまいました
朗子は雷太の妻ですが、その娘である紅が、捨井と恋愛関係になるかもしれないという映画の後半の展開ともやや合致するように思いました。
原作のフランクランド老人は、天体観測が趣味で、その望遠鏡を使って近隣の動きを探ったりしているのですが、蓮壁家の動きを探るというところとも少し関係があるかもしれません。
捨井准教授
すてい=ステープルトンということで、原作の犯人役をあてがわれた捨井准教授ですが、実は真犯人ではありませんでした。頭脳レベルが獅子雄と近いと言うことで、原作のステープルトンにも通じるところがあり、序盤では怪しさ十分な役回り。
ステープルトンは博物学者という設定ですが、捨井さんは地質学者というところも、同じ学者であるという点では共通していました。
しかし、捨井准教授が、真犯人ではないと言うことが徐々に分かってくると、上でも書きましたが、紅=ステープルトンであるということが際立ってきます。
バスカヴィル家の遺産相続者であるステープルトンと、蓮壁家の残された遺産相続者である紅という点でもますます紅の方がステープルトンと同一であることが分かります。
もしかすると捨井さんと紅が夫婦になってたかもしれない世界線もありえたということも、ベリルとステープルトンの真の関係(妹ではなく妻)を彷彿させるかもしれません。
あるいは、原作ではヘンリー卿がベリルに好意を抱いていたことからは、捨井はヘンリー卿の要素も持っていたのかもしれません。
馬場杜夫
原作のバリモアと同様、蓮壁家の執事をしていますが、原作と違うのは妻(イライザ)がいないこと。しかし、生涯をかけて守るべき秘密を共有したのが依羅であることを考えると、馬場と依羅(=イライザ)は擬似的な夫婦のような関係と言えなくはありません。
世良伝次郎
バリモアの妻イライザの弟が脱獄囚であるセルデンだったのですが、映画では、セルデンにあたる世良伝次郎は、冨楽夫妻の甥という設定でした。原作では非業の最期をとげるセルデンですが、映画では獅子雄達とともに危機を乗り切る役割でした。
伝次郎の横縞の服装と左胸に入っている数字がどことなく囚人を連想させます。数字はメモしようとしたのですが、1859××××と前半しか読めませんでした。前半はコナンドイルの誕生年でしょうか。後半も含めて見られた方は教えてください。
【追記】
黄緒さんが確認してくれました。
拝読しました(^^)/
先程、映画観て確認してまいりました。せらでんの胸の数字は「1859522」で、
やはりサー・コナン・ドイルのお誕生日かと思われます(^^)— 黄緒 (@kiolovestfjok)
殺人犯であるセルデンに通じる役割の世良ですが、「人殺しちゃ、だめでしょ」という台詞を言わせているあたりは、やや皮肉なところがありますね。
霞島警察署長
原作では主要な登場人物として印象的なキャラでもあるモーティマー先生が、映画では登場していません。
太田プロデューサーにお話を伺ったときは、原作でもちょっと怪しい感じを醸し出しているキャラなのですが、映画では捨井准教授が似た役割を担っていることもあり、あえて登場させなかったとおっしゃっていました。
やはり出ないんだな、と思って映画を見終わったのですが、実はいたようです。
映画では気がつかなかったのですが、獅子雄が碧海誘拐事件の話を聞いた霞署の署長、この方の名前が持田さんだということが分かりました。
映画で名前が出ていたのか、もう一度見るときに確認しようと思いますが、ノベライズの小説を読んでいたところ、持田署長であることが分かりました。
もちだ、もてぃだ、もーてぃま、モーティマー、ということで、いかがでしょうか。
原作から来ているエピソード
靴がなくなる
映画では、蓮壁千里の靴がなくなって、新しい靴(登山靴)を購入したことが車中の獅子雄との会話で明らかになります。(靴屋のレシートの店名のデボンというのは、原作の舞台となったダートムアのあるデボン州から来ています)
原作でも、ヘンリー・バスカヴィルがアメリカからロンドンにきて泊まっていた宿で靴がなくなるエピソードがありました。
チャールズ卿の死にまつわる気味のわるい話はしばらくおくとして、この二日間に遭遇した不思議のかずかずをあげてみるならば、まず第一にあの妙な切り貼り細工の手紙、それから馬車の中のひげ男、新しい茶色の靴の消失、つづいて古い黒靴の紛失、そしていままた失なわれた茶色の靴が地から湧きでもしたように現われたのだ。
原作では、魔犬に靴の匂いでその持ち主を追いかけさせるために靴を盗んだのですが、一回目は新しい靴だったので匂いがついてないので再度古い靴を盗んだというエピソードとなっています。
映画では、古い靴をヴィルに持って行かせて新しい靴を買わせ、その靴に匂いをつけてヴィルに追わせるという設定になっていました。
このあたり、若干、必然性について分からないところはあります(理解されている方がいれば教えてください)が、古い靴に犬の好きな匂いをつけたらヴィルが持ってってしまって計画が狂ったと言うことなのでしょうか。いずれにせよ、新旧の二足の靴が出てくるというところは踏襲されていました。
ちなみに、新しい靴を買った店の名前が「デボン」ということがレシートから分かります。これはバスカヴィル家の犬の舞台であるダートムアがデボン州にあることからきているものでしょう。ついでに言うと、狂犬病のウイルスを購入した裏サイトの名前がダートムアでした。
脅迫状
映画の中では、差出人の違う、二種類の脅迫状が登場します。
一通は、地盤の悪さを元に、近く起こるであろう震災に備えて屋敷を退去するべきであるという趣旨の手紙。そしてもう一通は紅の誘拐に関するものでした。
この二通は切り抜きで作られていましたが、新聞のフォントの違いで、差出人が違うことを獅子雄は突き止めました。
原作の脅迫状は以下のような物でした。
じつは手紙――というのも変なくらいなんですけれど、今朝こんなものを受けとったのです」
といって従男爵は封筒に入ったものをテーブルの上においた。私たちはみんなでそのまわりに額をあつめたが、それは灰いろがかった普通の封筒で、ノーサンバランド・ホテル気付ヘンリー・バスカヴィル卿と下手な字で宛名が書いてあった。前夜のチャリング・クロス局の消印がおしてある。
「あなたがノーサンバランド・ホテルに宿をとることを誰か知っていましたか?」ホームズは相手の顔を鋭く見つめた。
「誰も知っているはずはないのです。モーティマーさんに駅でお目にかかってから、そこに宿をとることにきめたのですから」
「でもモーティマーさんは、むろんそこへ泊まっておいでなのでしょう?」
「いいえ、私は友人の家へ泊まっているのです。ですから私がヘンリー卿をそのホテルへ案内するということを、誰ひとり知るはずはないのです」
「ふむ! あなたがたの行動をきわめて熱心に監視している者があると見える」
ホームズは封筒の中から半截のフールスカップを四ツ折にした紙を取りだして、テーブルの上にひろげた。見るとその中央にただ一文『生命を惜しむの理性があらば、沼沢地に近づくなかれ』と、印刷された文字を切りぬいて、一字ずつ糊で貼りつけてあった。そしてその中の沼沢地(moor)という字だけがペンで書いてある。
原作では、ステープルトンの妹(実は妻)のベリルが、ヘンリー卿のことを心配して危険地帯から遠ざけようとする警告文だったのですが、映画では捨井が出した方の警告書がこちらと合致しています、という逆転現象のことは上でも書きましたね。
新聞のフォントに注目したという点、原作では、やはりホームズが新聞のフォントを熟知していて、どの新聞かをつきとめていました。
「モーティマー先生は、黒人とエスキモー人との頭蓋骨は容易に判別できるでしょうね?」
「それは何でもないことです」
「どうして判別します?」
「それは私の道楽でもあるからです。明らかな相違点があります。眼窩上の隆起線、顔面角度、顎骨の曲線、それに……」
「そうでしょう。同じようにこれが私の道楽なのです。やはり明らかな相違があります。あなたに黒人とエスキモーの頭蓋骨の区別が明らかなように、私の眼には『タイムズ紙』の九ポ活字とやすい夕刊紙の粗悪な印刷とでは、大きな違いがあるのです。活字の判別ということは、犯罪学入門の一科目です。もっとも私はずっと若いころ、『リーズ・マーキュリー紙』と『ウェスタン・モーニング紙』を間違えた失敗もやっていますけれど、『タイムズ』の社説欄は何といっても間違う余地はありません。この字は決してほかのところから切りぬいてきたものじゃないです。それにこの細工は昨日やったことがわかっているのですから、昨日の新聞から切りぬいたとにらむのはきわめて自然でしょう」
獅子雄が二つのフォントの違いを見破れたのも、ホームズ同様のフォントに関する知識があるということと通じています。
そして、獅子雄は切り抜き跡がある新聞を探しに、捨井の研究室に行ったり、冨楽家の焼却炉を探ったりしていました。
原作でも、ホームズは警告書を作った人物を探すために、カートライトという少年に次のような指示を出しています。
「お前にこれを一軒ずつ回ってもらいたいのだ」
「はい」
「ホテルへいったらまず第一に、玄関番に一シリングずつやるのだよ。さ、二十三シリングだけ渡しておくからね」
「はい」
「そしてね、きのうの紙くずを見せてほしいと頼むのだ。大切な電報をまちがえて配達したから、それを捜しているんだといってね、いいかい?」
「はい」
「しかしほんとうはね、捜すものはきのうの『タイムズ』の本紙で、中に鋏できりとった穴のある分なんだ。ここに『タイムズ』の見本がある。このページを切ってあるんだ。だからあればすぐわかるはずだね?」
新聞が特定できれば、切り抜き跡のある新聞を探すというのは当然の方針ですね。二人の名探偵が同じ行動をしているのが分かります。
リモートバディ
蓮壁家の館がある霞島。
行きこそ一緒に向かった獅子雄と若宮ですが、その後、若宮は蓮壁館に滞在することになりますが、獅子雄はどこかに行ってしまい若宮をやきもきさせます。
これは原作の構図とも重なる部分で、ホームズはダートムアへ向かうヘンリー卿にワトソンを同行させそのままバスカヴィル館に滞在させてヘンリー卿を守るように仕向けます。表向きは自分はロンドンを離れられないという理由ですが、実は手強いステープルトンを油断させて、実は自分もこっそりとダートムアへ滞在して事件を調べていたのです。
原作では、ワトソンはホームズが来ていることを知らないのですが、映画の方では若宮は獅子雄がいることは知ってるものの、どこで何をしているのかが分からないという状態でした。
映画の感想で、バディなのに離ればなれの時間が多い、というのも見かけましたが、これは原作をリスペクトすればこそなのです。美しい二人を一緒に見たいという気持ちはよく分かりますけれども、原作がバスカヴィルである以上しかたがありません。
そんな離ればなれだった獅子雄と若宮ですが、事件終盤でついに再会を果たします。その場所というのが廃坑。一方で、原作でワトソンが隠れていたホームズに出会ったのは石室でした。
見るとその石室には、果たして! 怪人物の住むらしい形跡があるではないか! 私はうれしさに心のおどるのを覚えた。怪しげな岩石の間のうす暗い通路をゆくと、荒廃した入口があって、内部はしんと静まりかえって物音一つ聞こえない。怪人物はいまも現にこの中に潜伏しているのだろうか? それとも出て沼沢地をうろついているのだろうか?(中略)
彼が立ちどまったのだ。と思ううちにふたたび近づいてきて、石室の入口に人影がさっとさすとともに、
「ワトスン君、夕やけが美しいね」聞きなれた声である。「そんな暗いところにいないで、出てきたまえ。外のほうがずっとはればれするよ」(中略)「ホームズ君、君だったのか!」
ロケーションもなんとなく洞穴っぽいところで共通しています。また原作では怪人物だと思ってたのが実はホームズだったのと、映画版で廃坑で遭遇した魔犬だと思っていたのが実は獅子雄だったというあたりも似ているように思いました。
ダッシュ!
映画の終盤で、「0点は俺だったか」と言うなり、獅子雄が走り出し、ヴィルと若宮が続くという場面があります。獅子雄のあまりの早さに若宮はついて行けません。
原作でも、魔犬、ホームズ、ワトソン(ついでにレストレード)が走っている場面がありました。
この巨大な猛犬は火をはき、からだをうねらせながら、矢のようにヘンリー卿を追っかけていった。私たちはびっくりしたあまり呆然としてなすところを知らず、はっと気がついたときには、もうかなり先まで走りすぎていた。ホームズと私はあわててピストルを一発ずつ放った。犬はものすごい声で吠えた。少なくとも一発は命中したとみえる。だが犬は少しもひるまずにひた走った。
ヘンリー卿はと見ると、はるか先でこちらを振りかえり、恐ろしさに気でも転倒したか、まっ青になって両手をあげて逃げまどうのが、月光をあびてありありと見られた。
犬の悲鳴をきいた私たちは、恐怖を忘れて急に元気づいた。弾丸が命中して悲鳴をあげたのだから、むろん妖怪ではあるまい。とすれば射殺することもできるはずだ。
私たちはそれッと駆けだした。このときのホームズほど速く駆けた男を私は見たことがない。必死になって走るのだが、どうしても追いつけなかった。レストレードときたらドンジリで、私がホームズにおくれているくらいの間隔をもって私につづいてくる。
ホームズと獅子雄、足の速さでも共通していることが分かりました。
罠と底なし沼
原作の舞台、ダートムアは沼沢地が多くあります。
ステープルトンは笑いだした。「あれがグリンペンの大底なし沼ですよ。あやまってあそこへ踏みこめば、人でも獣でも死ぬばかりです。現に昨日も、この地方特産の小馬が一頭あれへ迷いこんだのを見かけましたが、それっきり出てはきませんでした。だいぶしばらくは泥の中から首だけもたげていましたが、それもとうとう泥の中へのまれてしまいました。乾燥期ですら、これを通るのは危険があるくらいですから、秋雨のあとの今ごろは実におそるべきところです。それでも私は研究の結果あれの中心までいっても、無事に帰ってこられる道を発見しております。おや、それあそこにも小馬が一頭、底なし沼に嵌りこんでいますよ」
蓮壁家の鉱山跡にはトラップがたくさん仕掛けられていて、地図なしでは安全に歩けませんでした。映画では地図を見ながらも、棒をもって慎重に進んでいた獅子雄と若宮の姿がありましたが、原作の終盤で底なし沼をわずかな目印を頼りに歩いて行くホームズとワトソンと重なります。
Tomo’s Comment Follow @tommasteroflife
他にもいろいろと気づいたことはあったはずなのですが、取り急ぎここら辺で一度アップしたいと思います。
おそらくまた見に行くと思うので、追加があれば随時追記していきたいと思います。
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