Introduction
今日は最初の授業と言うことで、コースの紹介と人道支援のシステムについての講義でした。
まず授業はレクチャーとグループワークで成り立っていて、評価はグループワークで作成するレポートが35%、残りは最終日のShort Answerテストによるとのこと。
その後、紛争と保健に関する簡単な紹介。
難民とInternally displaced poepleが冷戦後増加している統計が初回されました。この難民とIDPへの支援を行っているプレーヤーとしては、国連(UNHCR、OCHA、WFP、Unicef、WHO等)、国際赤十字・赤新月運動、NGO、ドナーがある。
NGOは国際NGOとローカルNGOがある。分類としては、宗教的なもの、Dunanist(国のInterestと距離を置く)、Willsonian(国のInterestと協調している)ものに分けられる。
人道支援システムは91年と05年にリフォームされている。91にはOCHA、IASC、ERCなどが設置された。05年12月以降はClusterの考え方が導入された。
人道支援の原則としてはInternational Humanitarian Law(IHL)などがある。これは戦争の負のインパクトを最小限にしようとするもの。
その後、南スーダンに関するテレビ番組のビデオを見ました。ある兵士が撮った現地の映像を元にしたもので、戦争下の人々や兵士の声、人々の暮らしや考えなど生々しい映像でした。スーダンからの留学生が二人いて、この番組後の様子や自分の感じたことなどを説明してくれました。こうしたクラスメートから学べることが非常に多いコースであると思います。ざっと見ても、彼らの他にもイラクやアフガンから来ている人もいれば、NGOなどで人道支援に携わってきた人も多く、グループワークなどが楽しみです。
ちょっと反省したのは、アフリカでの内戦や紛争についての知識が乏しかったことです。背景など、簡単にでも調べておけば、より理解が進んだと思います。遅ればせながらWikiで見てみました。
スーダン内戦(スーダンないせん)は、1983年、当時のヌメイリ政権が国政にイスラム法を導入したことに、南部の黒人(キリスト教徒)が反発し勃発したスーダンの内戦。
1989年後半から非アラブ人キリスト教徒のスーダン人民解放軍(SPLA)、アラブ人イスラム主義者のオマル・アル=バシール政権双方の衝突が南部で激化した。1995年3月に米国のカーター元大統領の仲介で一時停戦が実現したが、1996年にSPLAとエリトリアに拠点を持つ国民民主同盟 (NDA) が政府に対する共闘を開始し、内戦が拡大した。1997年4月、SPLAを除く反政府勢力4派と政府が和平協定に調印し、1998年5月4日、政府とSPLAの代表がケニアのナイロビで約半年ぶりに和平交渉を再開したが、一方で、東南部では戦闘が継続していた。
その後、エジプトとリビアによる仲介工作、スーダンと隣国6ヶ国でつくる政府間開発機構 (IGAD) による仲介に加え、スーダンの石油資源に関心を示す米国が2002年1月に特使を派遣し、積極的な調停に乗り出した。この結果、7月20日、政府とSPLAは、SPLAが実行支配する南部の帰属をめぐる住民投票を2008年に実施することなどを柱とする和平の枠組みに合意し、27日に、バシール大統領とSPLAのジョン・ガラン最高司令官がウガンダのカンパラで初会談をもった。これを受け、8月12日からケニアのマチャコスで包括的和平合意を目指した交渉が再開されたが、SPLAが南部の要衝トリトを武力制圧したことなどを受け中断した。その後、2003年1月に交渉を再開することで両者は合意。曲折を経た和平交渉はようやく翌々年の2004年5月26日になって、21年続いた内戦を終結させるスーダン政府とSPLAの包括和平協定調印に至った。
ダルフール紛争はスーダン西部のダルフール地方で2006年現在も進行中のスーダン政府に支援されたアラブ人によるジャンジャウィードと呼ばれる民兵と地域の非アラブ人住民との間に起きている民族紛争である。 この紛争で2003年2月の衝突以降、2006年2月時点での概算で18万人が既に殺害され、現在進行中の民族浄化の事例として広く記述されている。2004年6月3日の国連事務総長の公式統括(bilan officiel)によれば、1956年の独立以来、1972年から1983年の11年間を除いて、200万人の死者、400万人の家を追われた者、60万人の難民が発生しているとされる(UN Doc.S/2004/453)。
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